1月2日
(木)未明。ロシア船籍タンカー「ナホトカ号」が島根県隠岐島北約100キロの 日本海で遭難して沈没。
1月3日
(金)船首部分が重油を流出しながら漂流していると報道あり。
1月7日
(火)船首部分が、福井県三国町の沖合の岩礁に座礁し、流出し た重油も岸に漂着。翌8日には、加賀市の海岸でも重油の漂 着が確認され、県内では9日から人海戦術による油回収除去 作業がスタートした。
1月9日 (木)
加賀市の海岸で重油除去作業が本格化する。能登半島への漂着も懸念されることから、田鶴浜第1団として土曜日、日曜日にかぎり油回収のボランティア派遣の用意のあることを、羽咋第1団(富来町鹿頭)団委員長森田一雄宅へ電話で連絡する。(この時点では油の漂着はないとのことであった。)
1月12日 (日)
午前9時頃ボーイスカウト石川県連盟浜本県コミッショナーから県連盟として石川県のボランティア協会に登録をするため、能登地区各団の参加予定人数の報告依頼があり各団と連絡をとり送信する。
午後1時半からの隊集会では、出席した隊員へも派遣要請の連絡があったら昼食用のおにぎりと防寒をして指定された時間に団本部に集まるように伝達する。 また、現時点で最も有力な派遣先は、昨年地区合同訓練でアブラメ釣り大会をした赤崎海岸であることやビニールカッパ及びゴム手袋は隊から支給することを伝えた。1月13日(月)
能登半島沖の油の帯は舳倉島の沖38キロまでに達っし石川県魚連は休漁して、沖合で重油の回収作業を行う。また、午後6時30分に浜本県コミッショナーから災害ボランティア協会に登録をしたこと及び災害対策本部の設置箇所や各地区本部を明記した書類1通がで送付されて来た
1月14日
(火)
各団宛に書類の写しを郵送。午後5時少し前に羽咋1団森田団委員長から電話があり、赤崎海岸に漂着した重油を鹿頭及び赤崎の集落が明日一斉に回収作業に当たるので、友隊として協力要請があった。
団委員長と相談の結果、災害派遣をすることに決定。人員輸送のためにハイエース(15人乗り)の利用申し込みに町役場に出掛ける。午後5時を回っていたが、許可を得ることができ、石川利樹元副長が運転を快く引き受けてくれることになった。
森田団委員長に災害派遣の決定を電話連絡。町内会にその旨を伝え受け入れの準備に入るとのこと。また、金沢地区でも同様の決定があり明日9時に「長町研修館」に集まり能登へ向うとのことであった。
5時40分。ビーバー班杉森悠一班長に連絡。各班の連絡網を使って次のことが全員に伝達された『15日午前9時30分昼食のおにぎり、ミニタン、制服正帽、長靴、防寒をしっかりして団本部の得源寺に集合』(中には9時集合と伝わった班があったが…)副長宅へも連絡。
隊でも早々必需品のリスト作りにかかる。実際のところ、こんなにも災害派遣が早くなるとは思っていなくて、少し後手に回ったが、今夜の内にゴム手袋だけでも購入して置こうと準備にかかる。
午後7時30分からは、PTA運営委員会に出席しなければならず、地区もしくは県連からの連絡があったら、返答は9時以降になることを家人に頼んで運営委員会へ出席。明日9時までにビニールカッパ20個をPTA会長(杉宅商店)に注文、時間までに届けてくれるように依頼する。9時30分。PTAから帰宅後羽咋1団の森田団委員長から連絡あり。集落と隊内で受入の体制が整ったとの連絡を受ける。
また、浜本県コミッショナー宛に赤崎海岸までの略図を明朝までにFAXして置くよう依頼があった。
1月15日 (水)
成人の日午前9時。30分早く来たスカウトにカップヌードルの買い出しを頼む。後方支援車として隊長の車にツゥバーナー1台ヤカン2個、10リットルポリタンに飲料水をいっぱいにして積み込む。昼食の副食用としてカップヌードル24個が確保できた。買い出しに行った隊員からは町内スーパーのどこにもなくて、コンビニ・リックスにあった全部を購入してきたそうだ。杉宅商店からは在庫がないので、ポケットビニールカッパ3個とゴム手袋7組が援助物資として杉森班長のお母さんが届けてくれた。班長は、風邪で欠席だそうだ。15人の隊員中、集まった隊員は7人。欠席の理由は次表のとおり。
・集団かぜ | 6名 |
・家族旅行 | 1名 |
・スポーツクラブ | 1名 |
計 | 8名 |
特に、中学2年生の各班の班長と次長が集団風邪で全滅状
態。なぜかいつもタフな中学1年生が今回の災害派遣の主力と
なった。
役場のハイエースは、約束の時間どおり9時30分に団本部前に到着。副長は、隊長の軽四バンで先発して、途中の中島町のホームセンターでビニールカッパの購入にあたることになった。約5分遅れで本隊出発。コメリ中島店で副長と合流、上下の透明ビニールカッパは4着しかなく、富来店でもう4着あればの期待をもって副長は釼打経由で、本隊は豊川経由でそれぞれ富来町に向う。
富来町に近づくとく海上に2機のヘリコプターが低空を飛んでいる。コメリ富来店の前で副長と合流。4着購入でき、これで隊員と石川さんの装備が整った。増穂が浦リゾートビーチにもかなりの地元の人が回収に集まっているようである。増穂が浦を左に見て目的地である「鹿頭」の集落に急ぐ、「鹿頭」の入口に「ユートリーボーイスカウト奉仕隊」の標旗を掲げた軽トラがある。森田団委員長だ、あいさつもそこそこに赤崎海岸への入口を案内していただく。後発の副長を待つため隊長ここで下車副長すぐに到着、同時に金沢地区からの先発も到着、海岸入口を案内するために副長と先導する。10時30分。現地到着。
海岸に沿って車一台分が通れる道があり目玉マークの入ったパラボラアンテナのついた車がありフジテレビの中継車が数台駐車している。その脇をぬけて、地元集落の人達が回収作業をしながら北上する最先端部あたりに車を止めて、油回収の準備をして早々に地元の作業集団と合流して作業を開始する。いきなり、持参したポリバケツやヒシャクが役に立たない。どちらかといえば、油が岩場と砂利浜に打ち上げられたようなもので、重油にまみれた海藻や漁網をまず引き上げて一ヶ所に積み上げ、その引き上げた跡にべったりと残る油を手作業で土のう袋に入れ、回収しやすいように道路付近まで運んでまとめて置く。といった作業内容で、ほとんど手作業の重油回収なのである。重油というだけに土のう袋に約3分の1ぐらいになったものを持ち上げるとずっしり腰に来るほど重い、足場も悪く結構重労働である。20bほどの間隔で油まみれの海藻やごみの山を築き、それに火を点けて焼却し北上するので、時々それに体を暖めて作業にあたる。
教訓その1−ビニールカッパとゴム手袋をして、一度油にさわるとションベンができない。下がったズボンも上げることもできないので、事前にションベンをしてしっかりズボンがずり落ちないような装備をして作業に臨むこと。
教訓その2−ゴム手袋の口部分がめくれるのと、しぼりのついたカッパの袖口から中に着ている衣類の袖が出てきて油で汚れる。これを防止するために、ガムテープで袖口を固定するはずだったが、団本部の玄関の牛乳受箱の上に忘れて来てしまった。とにかく作業が終了するまで汚れた両手では何もできないことが解った。実際に、行動を起こさなくては解らないことが沢山あるものなのである。
11時30分午前の作業終了の合図があり午前の部終了。午後は1時から鹿頭の築港から北に向って再び作業を開始するとのことである。車を止めた場所に戻る時、海上を低空でC−130が北上、赤崎海岸の沖で西に向って方向転換をする姿は、迫力満点である。ジェット機でありながらプロペラのついたターボプロップエンジン4発を持つ独特の輸送機は、傑作中の傑作機としてあまりにも有名である。
車の場所に来たが、さあこれからが大変である。まずゴム手袋を脱ぐのであるが油まみれで手袋の袖口から脱ぐと手袋が裏返ってしまい二度と使えないのであるが、指先から引っ張って脱ぐには軍手をした上にゴム手袋をした方が良く、寒さ対策のうえにもその方法がグッドである。これを教訓3にしよう。
今回は、とにかく脱がなくてはどうにもならず午前の部で使用したものは焼却することにした。羽咋第1団から団本部の常徳寺(能登教区4組・藤懸了雄住職)で豚汁を用意したので休憩して欲しいとのご好意があったが、汚れていて車に乗れず現地の焚火を囲んで昼食をとることにしたのだが、森田団委員長に豚汁の入ったお鍋とお茶の入ったポットを現地まで出前していただいたのには恐縮であった。午後の作業開始は、1時30分からと変更されたようである。
お湯を沸かし、思い思いのカップヌードルを開けてお湯を注いで副食の準備。その間に、あったかいお茶や豚汁で体を暖め海岸の焚火のそばで持参したおにぎりで昼食をとる。手についた油の匂いでせっかくのおにぎりもおいしくない。昼食はすぐ終わったが、このまま1時30分までここにいるには寒すぎるので車に入ることにする。車のそばの草むらにカッパを脱ぎ、長ぐつズボンも慎重に脱いで風で吹き飛ばされないようにして車の中に入って食後の休憩をとることにするが、車内はワイワイガヤガヤのおしゃべりタイムとなった。
1時30分午後の部開始である。新しいゴム手袋をつけて作業開始。作業は築港から始まった。新しい土のう袋に次から次と海藻や漁網といっしょに油が回収される。岩場に油にまみれた海藻の固まりを見つけ、海藻を取りのぞいたあとにべったりと重油の固まりがあり回収作業がその場だけで30分ほどかかるのだがこのような場所を探し出した方が回収作業がはかどることがわかり、我々はそれを「油田」と呼ぶことにして、回収作業の集団より先行しながら「油田」を見つけては作業を続けた。午後の作業に入って間もなく、やたら報道機関や県警のヘリコプターが沢山飛びかっているのだか、南の方から海岸線を超低空で足の早いヘリが飛んでくる。ヒユーズ社のH6カイユースである。見覚えがあると思えば、映画『ブルーサンダー』の主人公を最後までてこずらせたヘリと同じ型である。軽観測ヘリだが卵型の胴体は空力特性がよい。今日は、軍用機に良く出会う。F15イーグルジェット戦闘機も思いっきり低空で北上しそして南下していった。油を回収しながら、時々空も見上げながらと忙しいことである。
田鶴浜第1団災害派遣隊員の中には、油の回収の得意な隊員と不得意な隊員がいることが判明、得意な隊員のことを「職人」と呼ぶことにした。「職人」の腕前は、誰もが認めるほどその手の動きは華麗で見るものに感動すら与える。また「職人」は、その技術を隠すこと無く、いつでもリクエストに応えて披露してくれる。さすが「職人」となると、技術だけでなく心の広さまで持ち合わせているようだ。
午後3時30分作業終了の合図があり、車まで引き返すが思ったより遠くまで作業に来ていたことに驚く。途中、築港で地元の方から軽油のようなものを染み込ませた布を受け取り汚れた手を拭くと見事にとれる。「これは何ですか」と尋ねると「ネオス」と言うもので、重油タンカーの内部を洗浄する際に10倍ぐらいに薄めて使用する洗浄剤だそうで、生に近いので顔などは拭かないようにとのことであった。色々と勉強になります。使用したカッパや手袋は二度と使いものにならないので、焼却して帰ることにする。地元の人たちも「ありがとう」「ご苦労さま」と口々に声を掛けてくれるが、これで終わりと言いきれないこともあり、再び重油の漂着があることが十分考えられるという不安と疲れと寒さで仕事の後の晴れ晴れとした気持ちがなく、あまり皆さんに力がないのが少々気になる。
やるせない怒りを持ちながらも一人ひとりの手足を動かさなければ、何の解決も期待できないという現実を前にした人々の複雑な気持ちがそうさせているのかも知れない。
どこも寄らずに団本部に直行することにする。車中はみんな疲れたのか、途中から寝息しか聞こえなかった。おつかれさんでした。
こうして、おそらく歴史の1ページに記述されるであろう重油流出災害の重油回収ボランティアに田鶴浜第1団ボーイスカウト隊の7人のスカウトが第1次参加を果たしたのであった。正直なところ第2次・第3次などと続くことのないように願うのは「二度と行きたいとは思わない」と言った中村隊員のみではない。あの時はみんな同じ気持ちだった。でも、珠洲の長橋地区の回収作業をテレビや新聞で見ると、大変な作業であると思うし、あの重油の匂いを思い出すような気がするが、要請があれば再び行かねばならないという気持ちである。中村隊員もきっと同じであると思う。1997年1月19日 記
<参加隊員> 隊 長 大橋 友啓 副 長 大橋 渉
ハイエース運転 石川 利樹(役場)
小原 誉幸(中2) 中村高志(中1) 坂井隆志(中1)
吉川 智文(中1) 伊藤真人(中1) 大橋友祥(小6)
松任信太郎(小6) 以上10人
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